PRODUCER'S NOTE 〜なぜ制作陣は気が付くとエアギターに巻き込まれていたのか〜

ダン・カットフォース、ジェーン・リプシッツ、アンナ・バーバー(プロデューサー)

2002年の晩夏、我々の同僚であり友人でもあるクリストン・ラッカーとセドリック・デヴィットは、フィンランドのヘルシンキへと渡った。そしてさらに電車を乗り継いでバルト海の小さな漁村へとたどり着いた。彼らの目的地であるフィンランドのオウルは、1990年代初頭に開催されたエアギター世界大会以来、国際的なエアギターのメッカとなっていた。ラッカーは以前、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に載っていた2001年世界大会の記事からエアギターを知り、2人はこれがいったい何なのかを探りに行ったのだ。ラッカーとデヴィットはエアギタリストたちのコミュニティに歓迎され、海抜3メートルほどの人里離れた島で毎年開催されるエアギター・トレーニング・キャンプへと招待される。そこで彼らは、過去のチャンピオンたちから大会のルールとエアギターの極意を教えられるのだった。

ラッカーとデヴィットは、オウルで聞かされたエアギターのバックボーンにある思想について興味をそそられる。大会の発起人たちは、エアギターは世界に平和をもたらすことが出来るという信念のもと大会を開催していたのだ。もしみんながエアギターを持てば兵器を捨てざるを得なくなり、戦争は終わり、平和が訪れると信じていた。この一見突飛なメッセージと、世界チャンピオンとして君臨するザック・モンローの感動的な言葉に魅了されたデヴィットは大会に出場することになる。ファイナルへと進出した彼は4位に輝く。

アメリカに戻ったラッカーと世界第4位のエアギタリストことデヴィットは、さっそくアメリカで初の公式団体を立ち上げた。

我々は、フィンランドから戻ってきたラッカーとデヴィットに現地での彼らの体験を聞かされ、すぐさまアメリカ大会のテレビ放映を決めた。VH1も我々のアイディアに食いつき、番組を買ってくれた。が、なぜか彼らはこの企画から降りてしまった。とはいえ、すでにエアギターの本部にお金を払い、アメリカ大会の権利を取得していた我々には、実行する以外の選択肢は残されていなかった。東海岸大会の会場にはニューヨークのストリップ劇場の上の小さなクラブ、ザ・プッシーキャット・ラウンジを押さえ、西海岸大会も企画し、ファイナルはロスのサンセットストリップの有名なロキシーで開催することに決めた。

東海岸大会のチケットは完売だった。テレビや新聞・雑誌などプレスからは問い合わせが殺到した。広報はアンナが担当していた。ザ・プッシーキャット・ラウンジは世界中のカメラマンやクルー、そして何百という熱狂的なファンたちによって埋め尽くされていた。さら西海岸大会のロキシーでは、普段クールなロックファンたちが、楽器なしで1分間の曲を熱演する人々の姿に大興奮した。マスコミの熱狂的なあおりもあってチケットは完売。何よりも我々が感激したのは、世界大会に最強のアメリカ代表を送り込むことを、観衆が自分たちの使命のように思ってくれたことだった。

我々が撮影したテープには、たしかに“エアネス”が映し出されていた。すぐさま我々は、テレビという媒体の粋を越え、映画を製作することを決めた。アレキサンドラ・リプシッツがニューヨークとロスのアメリカ大会撮影の製作、監督を引き受けてくれた。が、エアネスに魅了された彼女はさらに、フィンランドへと向かいこの世界大会を追わなければと決心する。

この『エアギター エピソード ゼロ』は我々の3年越しの夢であり、仕事であった。特にアレキサンドラにとっては、ただの監督としてだけでなく、自分自身もエアギターをプレイするくらいのめり込んでいたので、さらに感慨深いものがあるだろう。はからずも本作が描きだした世界観には重要なメッセージが含まれていると思う。有名になるということは一体どういうことか、国を代表して世界のトップになるということはどういうことか、そして最終的に“エアネス”を成し遂げるということはどういうことか。まったくもって取るに足らないことのようにも思えるが、それらを演じる登場人物のまなざしは皆一様に真剣なのだ。