FROM THE DIRECTOR

私にとっての子守唄は「ビート・オン・ザ・ブラット」や「電撃バップ」だった。

ラモーンズは私にとって本当に家族内の出来事であった。
1975年、私の父シーモア・スタインはラモーンズと、自分のレコード・レーベルであるサイアー・レコードでレーベル契約をした。私の母リンダ・スタインが彼らの最初のマネージャーであった。私にとっては、3歳の時に初めてCBGBでライヴを見たのもラモーンズだった。ベビーシッターを探すことの出来なかった両親は私をCBGBへと連れて行ったのだ。私にとっての子守唄は「ビート・オン・ザ・ブラット」や「電撃バップ」だった。

2004年の夏、私はちょうどNYからロスへと移り住み、ほとんどの時間を音楽監修の仕事に費やしていた。父はしばし、NYからロスへと私を訪ねてきた。そして父はいつも前立腺癌で苦しむ長年の友人、ジョニー・ラモーンと会う時間を作っていた。そんな父の訪問に私も同行する機会があった。

ジョニーと妻のリンダと話している中、ジョニーは親しいミュージシャンの友人を集めて前立腺癌研究のためのチャリティー・コンサートを行いたい旨を語った。レッド・ホット・チリ・ペッパーズがラモーンズの曲をフルで演奏し、ロブ・ゾンビが司会を務め、パール・ジャムのエディ・ヴェダーやピート・ヨーンといった素晴らしいミュージシャンたちがステージに集結する、という企画は最高だった。
彼らと別れた後も、私はこの企画のことが頭から離れずにいた。数日後、リンダに電話をして、コンサートを撮影しようと話し合った。ジョニーは「仲間たちがコンサートをやってくれるだけで嬉しいので、それ以上は迷惑をかけたくないため、何もいらない」と言った。

1、2週間後、ジョニーの病状が悪化し、コンサートに参加できないかもしれないと聞かされた。このコンサート映像をジョニーのために撮影することが私のミッションとなった。ついにジョニーは諦めてしまった、とリンダが言ったため、私はすぐさま彼らのもとを訪れたが、残念ながらこれが私の最後の訪問となってしまった。「コンサートを撮影する許可をくれてありがとう」と話すと、ジョニーは「一体何のことを言っているんだ?」とリンダに聞いた。リンダは彼の許可なく、私の撮影をOKしてくれていたのだった。「いずれにしても君ならやると思っていたさ」ジョニーはそう答えた。

私はジョニーに撮影を成功させることを約束した。それは、私の人生の中で最高の夜となった。彼に早く映像を見せたくて、そのまま編集作業に入った。だが、時間切れとなってしまった。コンサートからわずか3日後、編集室にこもっていた時に私はジョニーの死を知らされた。
image この作品を作っているとき、果たしてジョニーはこれを気に入ってくれるだろうかと、私はそれしか考えられなかった。彼が賛同してくれたのだから、素晴らしい作品を作り上げることが出来ると確信していた。ジョニーが誇りに思ってくれると嬉しい。